出現 他

たまゆら、私は奴のその存在をほんの僅か感じただけであったが、確かに奴は私の背後にゐたのは間違ひないことであった。奴は私の視界の境に何度か現はれては消えることを繰り返した後、私の虚を突く形で不意に私の背後に奴は現はれたのであった。それが奴の《他》に対する時の礼を尽くした作法なのであらう。

私も奴の礼に応へる形で後ろを振り返ることはせずに、唯奴のその仄かな存在感をじっくりと背中で堪能したのであった。それが奴に対する私の最高のもてなし方だったのである。さう思へたのは奴が私の正面ではなく背後に現はれたことで全てが語り尽くされてゐた。つまり、奴は私との対面は嫌ってゐて私の背後にしか現はれることが出来なかったのである。多分、奴は今尚自分の面を持つに至ってゐないのであらう。

しかし、奴の存在について私が何の疑念も抱かずに奴の存在を認めてゐることを吾ながら訝しく思ふでもないが、しかし、私が奴の存在を認めなかったならば一体誰が奴の存在を認めてやるのか甚だ疑問である。奴は確かに此の世に存在してゐる何かなのであった。多分、奴は《邪鬼》として何処にゐても忌み嫌はれ、未だ存在に至らざる何ものかであったのは間違ひないことであった。そんな奴であったからこそ私は奴の出現を許したのであった。だが、実際奴が私の背後に出現してみると私にはある疑念が湧いたのであった。それは奴が私を喰らふといふ疑念である。最初、たまゆら私の背後に出現した時点では私の腹は決まってゐなかったのである。つまり、奴が私を喰らっても私は別に構はないのかどうかといふ覚悟が私には出来てゐなかったのであった。しかし

――別に奴に喰はれてもいいじゃないか! 

これが私の結論であった。

――奴が私を喰らって仮初にも私の面を被らうが別にいいじゃないか! 

 多分、これが私に出来る唯一の自己変容の形、若しくは私の流儀であったのかもしれぬ……。

――ほら、また奴が私の背後に出現したぞ! 

俳句一句

秋雨の 煙る景色に 吾も消ゆ

                   緋露雪

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また、情報量は日々増えており、現在一日平均.2記事.7000文字程のペースで成長しています。今後も霊の教科書は成長し続けま%

幽閉、若しくは彷徨 五

――神か……。神は何故生命を多様なものとして此の世に創造したのであらうか……。

――人間を試してゐるのか? 否、存在を試してゐるのか? 

――何故試すのか? 

――神ならば此の世の全存在物の呻き声、それは例へば「吾は何ぞや」「吾は何故此の世に存在するのか」等の呻き声を知らぬとは言はせぬ。例へば「何故吾は奴の餌となるのか」等の呻き声を聞いてゐる筈だ。神ならば「何故吾は奴に弄ばれて嬲り殺されなければならないのか」等の呻き声を知ってゐる筈だ。それにも拘はらずだ。神は今も存在物を生滅させ続けてゐる。それは何故だ! 

――生々流転……。

――それでも神は吾に此の世の森羅万象を承認せよと言ふのか! 

――もしや吾吾は神に弄ばれてゐるだけなのか! 解からぬ! 

と、其処でまた一つ思考の小さな小さなカルマン渦は霧散したのであった。彼は眼前に拡がる無限を誘ふ闇を相変はらず凝視するのであった。するとまた一つ小さな小さな淡く輝く内発する光点が彼の視界を右から左へとゆらゆらと横切るのを見るのであった。闇はそれがどんなに薄っぺらな闇でも何処まで行っても闇の深淵であった。其処から這ひ出す術など彼にはなかったのである。見渡す限り闇であった。

――悪意に満ちた宇宙の全史……。

――悪意に満ちたか……。何故さう思ふ? 

――存在は存在させ、非在は存在させぬからだ。

――確かに存在が存在するといふことは悪意が満ちてないと出来ないな。しかし、非在が存在しないといふことに悪意はあるか? 

――非在は何時でも存在に取って代はるべくその時をじっと息を殺して窺ってゐるんだぜ。

――存在が存在することで非在を非在たらしめてゐるのか……。

――存在は非在に、未出現の非在物に呪はれてゐる。「早く吾にその存在の席を譲れ!」と。

――呪はれてゐる? 例へば人間一人存在するのにどれだけの精子と卵子が死滅したのか人間は解かって生きてゐるのか。

――簡単に生者は自殺するしな。

――ざまあ見ろだ! 

――確かにこの宇宙は悪意に満ちてゐるぜ。ふっ。また一人死んだぜ。ちぇっ、他を貪り喰らって生者はのほほんと生きてゐやがる。

――例へば一つの存在物が存在してしまったことで、その影で無数の存在出来なかった非在物が泣いてゐるんだとすると、存在はそもそもからして呪はれてゐるな。

――存在物はそれに気付いてゐながら知らん振りを決め込んでゐやがる。

――へっ、だってさうじゃなきゃ、存在してしまった《もの達》は一時もその存在すら出来ないぜ。

――それにしても存在する《もの達》はその事に余りにも無頓着過ぎるぜ。挙句の果ては己の生は己の自由だとぬかしやがる! 

――へっ、それだって構ひやしないぜ。どうせそんな奴は非在に呪ひ殺されるのが落ちさ。

――ふっふっふっふっふっ。非在に呪ひ殺されるか。はっはっ。

――ちぇっ、そいつ等は詰まる所行き場を失って自殺するしかないのか? 

――へっ、当然だろ! 自ら命を絶って非在の仲間入りをして《生者》を呪ふに決まってら。

――ふっふっふっ、自殺も《生者》の《自由》だものな。

――ちぇっ、そもそも生は泡沫の夢か? 

――仮に宇宙が悪意に満ちてゐるとするならば、生は泡沫の夢ですらない! 

――するとだ、生が泡沫の夢ですらないとすると生とは一体何なのだらうか? 

――一時、此の世に現はれて直ぐに消えてしまふカルマン渦の一種さ。

――またカルマン渦か……。

――《個時空》は知ってゐるな。時の流れの上に明滅する生命の若しくは存在のカルマン渦を。

――そして外界といふ《過去》にぽつねんと《現在》たる《主体》が渦巻となって抛り置かれカルマン渦となって《存在》する。そしてその《主体》は《有限》故に《死》を生まれながらに原罪の如くに内包してゐる。

――さう。《個時空》はそれ故に《孤独》だ。周りはすべて《距離》の存在する《過去》だからな。

――《個時空》が動くと外界は仮初にも無限遠を中心とした《時空間》のカルマン渦を巻き始める。その時の孤独といった何とも言へない程深い……。

――やはりこの宇宙は悪意に満ち満ちてゐるぜ。《主体》は未出現の、また無出現の非在に呪はれ、その上に絶望的に深い孤独の中に閉じ込められてゐるんだからな。

(五の篇終はり)

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俳句一句 和歌一首 詩一篇

俳句一句

 朔風に 身を曝しての 夢現

                      緋露雪

和歌一首

ぼんやりと 時を過ごして 彼岸に踏み入る

    その吾 さて 何を見出したのか ふっ

                                                緋露雪

詩 一篇

「憂き身」

何を思ふてか

不意に笑ひが吾が内部から迸り出たのだ

だからといって私が吾を許したことにはなるまい

とはいへ私は独りぽつねんと此の世にその憂き身を曝して

生きる覚悟はとっくに出来てゐると思ってゐたが

どうやら私は未だ吾に未練があるらしい

可笑しいだろ

それこんな時は吾を笑ってみるのだ

これが唯一私に残された清廉なるその生き姿なのだ

あの吾が肩に撓んだ蒼穹を私は独りで支へるしかない

しかも直立不動の立ち姿で

とはいへ私は独りぽつねんと此の世にその憂き身を曝して

生きる覚悟はとっくに出来てゐると思ってゐたが

どうやら私は未だ吾に未練があるらしい

哀しいだろ

それそんな時は吾を笑ってみるのだ

――ぷふふぃ。

ほら其処に逆立ちした侏儒の吾が私の影から逃げようとしてゐるぜ

私はそいつをひょいっと摘まんで喰らったのであった

――苦い! 

今も侏儒の吾が私の内部で笑ってら

――ぷふふぃ。

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幽閉、若しくは彷徨 四

――全存在は己が死すべき存在であることを知ってゐる……。

――それは人間の専売特許じゃないのかい? 

――否、全存在は己が死すべき存在であることを知ってゐる。

――だから子孫を残すのだらう。

――さうかもしれない。しかし、それ以前に全存在は己が死すべき存在だと知ってゐる。お前には存在のあのざわめきが聞こえないのか? 

――ざわめきだと! どうやらお前は幻聴が聞こえるやうだな、へっ。

――けっ、だからお前には何も解からぬのだ。全存在は「吾何ぞや」と呻き声を発しながら絶えず何かに変容することを渇望してゐるじゃないか! 

――何かに変容する? 

――さうさ。完全なる吾への変容さ。

――へっ、完全なる吾だと、こいつは可笑しいぜ。お前が言ふ完全なる吾が唯の一度でも此の世に存在した形跡はあるのかい? 

――神はどうかな? 

――ぷふぃ。神だと。神もまた神であることに我慢してゐるのじゃないかね。創造主としてものを創造してしまったことを後悔してやしないかい? 

――神が後悔する? 

――後悔してゐないとすれば、生物の、或ひは物質の多様性なんぞそもそも必要ないじゃないか! たった一人、完全なる吾なる存在を創造すればそれで神も創造物も満足なんじゃないのかい? それが出来てゐない以上、神もまた迷妄の中に迷ひ込んでしまってゐるのじゃないかね。

――創っても創っても完全なる吾たる存在物が出来ない神か……。

――そもそもお前は神を信じるかね? 

――ある意味では信じてゐる……。仏も同じだ……。

――さて、それはどうしてかね? 

――今もって科学では生体の何たるかを微塵も解からぬからだ。今もって科学は無機物から生物を創れぬからだ。

――……つまり……

――つまり、科学では神の撲滅は不可能だからさ。

――それは何故かね。

――つまり、科学は神の良き下僕でなければそれは既に科学ではない! 

――それは偏見ではないのか! 

――偏見でも構はぬ。しかし、科学はどうあっても神の忠実な下僕でなければ、それは最早科学なんぞではなく、未完成の吾の欲望の発露でしかない。

――それはまたどうして? 

――神が創った此の世が今もって承認出来ないからさ。

――此の世が承認出来ないことと科学とはそもそも関係ないのじゃないかい? 

――否! 科学が描き出す此の世の様相もまた承服出来ぬのだ。お前ははいはいと今現在科学が描き出し、また実現するこの文明社会を承認出来るのかね? 

――うむ。その判断は保留する……。今のところ何とも言ひかねるね。

と、不意に彼は其処で瞼を開け、眼前に拡がる闇を凝視するのであった。闇は黙して何も語らぬ。それ故に問ひを誘ふのであった。

(四の篇終はり)

私はこれまで三作品を上梓しました。しかし私は貧乏な物書きです。

また、私は賞レースを疫病神のやうに忌避していますので、これからも何かの賞に応募するつもりはありません。しかし、金に困れば何かの賞に応募するかもしれませんが……。

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和歌一首 二

夜の闇に ぽいっと吾を 捨ててみる

   いっひっひっあっはっはっと 

             笑ふは誰ぞ

              緋露雪

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幽閉、若しくは彷徨 三

 再び思考の小さな小さなカルマン渦が五蘊場に点ったのであった。

――他がなければ吾もなし……。

――すると他とは何ぞや。

――吾でないもの……。

――吾でないと何が判断してゐるのか? それは吾か? 

――免疫の段階ですらも非自己なる判断を吾はしてゐるが、吾はその総体としての吾……なのであらうか? 

――免疫か……。免疫制御機構に異常があると自己に対しても免疫は発動し自己を攻撃する……。

――それって自虐のことか? 

――自己が自己に対して攻撃し、破壊するといふ皮肉。

――それって皮肉か。自己が絶えず行ってゐる行為じゃないかい? 自己憎悪なぞ当り前のことじゃないのかい? 

――するとお前は免疫制御が吾の何たるかの淵源だといふのか。

――吾の一つの発動の仕方だ。『奴は敵だ! 敵を殺せ! 自己を防御せよ!』これがいつも自己のお題目じゃないのかい? 

――免疫によれば他はいつも攻撃する対象だが、しかし、自己は他なくしては生きられない。

――他を喰らはずしては一時も生存出来ない。

――それに水無くしてはな。

――そもそも水が受け入れないものは生物としての組成成分としてはあり得ないのじゃないのかい? 

――するとお前は水が吾の淵源だと? 

――それはどうか解からないが、しかし、一つの考え方ではある。

――けっ、水が諸悪の根源か! 生物が存在してゐるのは水の気まぐれか? 

――うむ。多分、水の気まぐれだらう……。

――初めに水ありきか……。

――初めに水ありきだ。

――水もまた思考する。

――水思ふ、故に吾あり……か……。

――けっ! 

 瞼を彼はゆっくりと再び閉ぢたのであった。見えるは瞼裡の闇ばかりであった。すると突然頭蓋内の闇に

――単細胞

といふ言葉が浮かんだのである。

――単細胞生物は現在も立派に現存する。

――多様性の問題か……。

――うむ。単細胞生物から人間まで現存する生物の多様性……。

――すると生物の進化とは何ぞや。

――へっ、人間は、さて、進化の頂点に君臨するのか? 

――そんな馬鹿な! 

――現存する様々な種は現存するそのことだけでも進化の最先端にゐるぜ。

――お前は単細胞生物から多細胞生物へ、そして最終的には人間まで進化してきたといふ進化論の見方を否定するつもりか? 

――いや、さうじゃない。確かに人間への進化はその様な過程を辿って来たのだらうが、しかし、単細胞生物が今も厳然と現存する事実をお前はどう思ふ? 

――多分、多細胞生物が絶滅してもまた単細胞生物から出直せる余地が今も残ってゐるといふことかな。

――さうさ。生物の多様性といっても、どの種もいつも絶滅といふ危機に曝されてゐる。生息環境の激変に順応出来なければその種は絶滅する。しかしだ、単細胞生物が現存してゐることを考へると、生物は絶えず新たな種の誕生を準備してゐるのじゃないか? 

――しかし、一度絶滅してしまった種は二度と此の世に現はれることはない! 

――だが、新種が生まれる余地はいつも残されてゐる。更に言へば、進化の最先端にある現存する全生物は、全て未完成だ。何故なら激変する生息環境に適応する余地を残してゐなければならないからだ。例へば生物に変容する余地が残されてゐないとすると、それは全生物が唯絶滅を待つ老成した完成品ばかりの世界と言へる。ちぇっ、そんな世界は全剿滅を待つだけのぞっとする下らない世界さ。

――すると、お前は生物といふ存在は未完成でなければならないといふのか! へっ、存在の懊悩は底無しだな。

――存在の懊悩? 

――さうさ。完成品でない存在は絶えず変容することを強要される。すると、必ず自己とは何だとその懊悩は始まるもんだぜ。

――我執……。存在は何としても己が己でないと我慢がならぬ存在だ。しかし、また己が己であることに我慢がならぬ誠に誠に身勝手極まりない存在でもある。その己はといふと絶えず別の何かへの変容を恋ひ焦がれ渇望して已まない存在だ。何とも始末が悪いが、しかし、さうじゃないと一時も生きてゐられぬものだ。

――へっ、それはまやかしさ。存在は己が己であることに安住したがってゐるだけのことさ。己が全的に己であれば存在はそれで大満足だよ。

――さうだとすると、後は絶滅を待つだけだな、へっ。

――この宇宙は、さて、悪意に満ちてゐる……。お前には聞こえないのか? 存在どものうめき声が! 存在はそれが何であれ吾何ものぞと自問自答を徹底的に繰り返さざるを得ないぎりぎりのところで存在してゐるものさ。

――ぎりぎりのところ? 

――さうさ。ぎりぎりのところさ。存在は絶えず死滅に曝されてゐる。これってぎりぎりのところじゃないか! 

――死の恐怖か……。

 すると彼の視界の端から一つの星のやうな小さな小さな光点がゆらゆらと彼の視界を横切ったのであった。

(三の篇終はり)

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和歌一首

月影に 吾見失ひ 久しかる 

分け入っても 在るは濃き闇

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幽閉、若しくは彷徨 二

 この茫洋と何処までも拡がり行くやうに思へる闇をじっと凝視してゐるとこの闇全体が彼の五蘊場であるやうなある錯覚へと彼を導くのを彼は感じずにはゐられなかったのであった。

――主客の渾沌……。

――吾が呼んでゐるこの吾とはそもそも何の事なのであらうか。

――へっ、吾思ふ、故に吾ありか、けっ。

――cogito,ergo sum……。

――自然もまた思考するんじゃなかったっけ? 

――すると、思考する故に吾あり、か? 

――その思考する吾とはそもそも何ぞや。

 彼は再びゆっくりと瞼を閉ぢて自身の闇の頭蓋内を覗き込まうと敢へて視線を内界へ向けるのであった。しかし、そこで見つかるものなどある筈もなく、彼は唯途方に暮れるのが関の山であった。すると再び思考の小さな小さなカルマン渦が五蘊場に明滅するのであった。

――何もありゃしない! 

――へっ、そんなことは初めから解かってゐたことじゃないか、へっ。

――それにしてもだ、これじゃ酷過ぎる。

――吾は何ぞやなどと自問してみたはいいが、その吾が何の事はない、唯の木偶の坊じゃ、仕様がないぜ、ふっ。

――それでも、木偶の坊であったとしてもだ、この俺は此の世に存在してしまってゐるんだぜ。

――だからどうしたといふんだ、けっ。

――ちぇっ、この存在め、何処かへ消えて無くなればいいんだが、ちぇっ。

――はっはっ、最後は尻尾を巻いて降参かな? 

――ちぇっ、それにしてもだ、何故吾は存在してゐるんだらうか? 

――へっ、それは禁句じゃなかったかな、何故って言葉は! 

――それでも問はずにはゐられないんだ。何故吾は存在してゐるんだらうかと。

――けっ、存在証明が欲しいのか? 

――いや、そんなことじゃない! 

――言っとくが、お前は唯の不純物が混じった水じゃないのか? 

――不純物が混じった水? 

――だってさうだらう。お前の七割程は水で後は有機物といふ名の不純物。

――つまりは海水の成分に近いってことか? 

――けっ、水が吾は何ぞやと問ふて可笑しくないかい? 

――自然もまた思考する……。

 ここで思考の小さな小さな一カルマン渦は飛散したのであった。彼は閉ぢてゐた瞼を其処でぱっと見開き、再び眼前の闇を凝視したのであった。

 何処も彼処も闇であった。闇は何故思考を誘ふのであらうか……。

(二の篇終はり)

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俳句一句 二

十三夜 煙草喫(の)みつつ 吾を追ふ

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幽閉、若しくは彷徨 一

 悪戯な夢魔に襲はれた彼は、宇宙に数限りなく存在し、今も生成し続けてゐるであらう銀河のその中心部たる巨大Black hole(ブラックホール)の事象の地平面へ、今も星星が砕け滅し断末魔を上げながら飲み込まれ行きつつ、事象の地平面といふ異世界への出立といふ、それを死と名付けてよいのかは解からぬが、その未知への旅立ちを何故かその瞬間、不意にその頭蓋内の闇に思ひ描いて、真夜中の真っ暗な部屋の中でぱっと瞼を開けざるを得なかったのであった。蒲団の中に臥しながら闇の中で瞼を開けるその行為は、しかし、何となく闇自体のその正体を虚を衝いて一瞬でも一瞥出来、その尻尾でも捉へられるのではないかといふ淡い期待を抱かせるといった幻想を誘ふ行為に彼には思はれるのであった。

――ぶぁっはっはっ。

――拡がるは闇ばかりであるが……。

と彼は思ひながらも闇もまたその瞼をかっと見開き彼をじっと凝視してゐるやうな奇妙な感覚に彼は襲はれるのであった。

――ふっふっふっ、闇はその眼で吾が物自体の正体を捕獲したのであらうか。

と、そんなことが彼の頭を過るのであった。

 外界の闇と頭蓋内の闇の交感はどうあっても無限といふものへとその思考を誘(いざな)ふものである。彼の周りは何処も彼処も闇であった。闇の中では何事も確定することなく未定のまま、闇夜に打ち上げられる大筒の花火の閃光を見るやうにぱっと何かが闇の中で閃いてもそれは直ぐ様闇の中に消え、再び別の何かが闇の中にその閃光を発するのを常としてゐた。闇の中では外界も内界もその境を失ってしまふものである。とその時彼の頭蓋内にはまた一つ思考する時間の流れの上に生じたであらう小さな小さな思考の渦巻くカルマン渦の閃光のやうなものが小さな生命の命の宿命のやうに生滅したのであった。

――かうして闇の中に横たはる吾とはそもそも何なのであらうか。

――……さてね。

と、そんな無意味な自問自答が彼の胸奥で生じたのであった。

――闇の中に蹲るもの達のざわめきが聞こえて来るではないか。

――へっ、それは幻聴じゃないのか。

――はっはっはっ。

――ふっふっ、幻聴でも構はないじゃないか! 

――ちぇっ、闇は何ものも誘ふ如何ともし難い厄介ものだな。

 不意にその思考の小さな小さなカルマン渦はぱっと消えたのであった。すると闇がその存在感を増すのである。闇また闇。するとまた一つ思考の小さな小さなカルマン渦が闇の中に明滅を始めたのであった。

――吾は吾の圧政者として吾を統率するが、さて、吾が吾から食み出るその瞬間、吾は何ものかへ変容を成し遂げるのか……。

――ぶぁっはっはっ。

――変容への志向か……。存在は存在に我慢せずにはゐられない存在なのであらうか。

――何? 存在が存在に我慢する?

――ぶぁっはっはっ。 

――すると存在は吾以外の何ものかへの変容を不可能と知りながらも渇望せざるを得ないのか……。

――ぶぁっはっはっ。

――それにしても、へっ、何故吾は哲学が嫌ひなのかな。哲学無くして存在は語れないにも拘はらず……。

――それは論理への不満さ。存在が論理で捉へられる筈はないと端から思ひ込んでゐるからじゃないのかい? 

――ふっ、それはその通りに違ひないが、吾は、多分、西洋的な思考法に疑問を感じてゐるのかもしれない……。

――ぶぁっはっはっ。

――すると、論理的な裏付けがないものは全て虚偽か……。

――けっ、即自に対自に脱自か、笑はせるぜ!

――ふっふっふっふっふっ。

――ぶぁっはっはっ。

――ぶぁっはっはっ。

――ぶぁっはっはっ。

 再び小さな小さな思考の渦巻くカルマン渦が闇の中に消えたのであった。彼はゆっくりと瞼を閉ぢたが闇は相変はらず瞼裡にあった。

――カルマン渦か……。思考も時間上を流れ移ろふのであれば、其処に小さな小さな思考が渦巻く思考のカルマン渦は発生する筈だが……。

――頭蓋内を五蘊が発生する場であると、つまり、五蘊場として看做すと、その五蘊場に思考の小さな小さなカルマン渦は発生してゐるに違ひない。

――すると、思考もまた自然を超越出来ないものの一種なのであらうか? 

――さうだらう……。自然もまた思考する。

 彼は其処で不意に瞼を開け眼前の闇を凝視するのであった。

――自然もまた思考する? すると、自然もまた死滅するカルマン渦の一現象に過ぎないのか? 

――生々流転……。諸行無常……。

 諸行無常とはある種残酷な思想である。万物は生々流転し、生滅を繰り返しながら此の世は移ろひ行く。生あるものは必ず滅するのである。

――万物流転。

――生老病死。

――寂滅……。

(一の篇終り)

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